日本橋人形町一丁目芳人町会は昭和51年、旧人形町一丁目と旧芳町一丁目が合併してできた町会です。
 
 人形町は、江戸期に中村座・市村座等の歌舞伎や、操り人形芝居が行われていた境町・葺屋町近辺に人形師・人形商の家が多かったため人形町と俗称されていたことが由来となっています。
 
 芳町は、古くは葭町と呼ばれヨシが叢生するところで江戸期の俗称でした。江戸初期に湿地帯を埋め立て市中各地の遊里を集めて葭原(のち吉原)と称する歓楽街として発展しました。
 
 明治5年、水天宮が芝赤羽橋から東京の代表的商店街の一つとして繁栄し、昭和45年まで続いた寄席末広亭や大観音寺、また「与話情浮名横櫛」で有名な玄冶店を中心に発展しました。
昭和20年3月10日の東京大空襲のとき、日本橋付近では人形町のみが焼け残り、戦後いち早くアーケード街を完成するなど活気を取り戻しました。
昭和59年 現在
 現在では、都営地下鉄浅草線・地下鉄日比谷線・地下鉄半蔵門線・都営地下鉄新宿線が通り交通の便もよく、今でも江戸情緒が残る下町の代表的な商店街として発展を続けています。
 
参考文献  角川日本地名大辞典
コンサイス地名辞典
写真提供  有田様